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序章 [銭泡記]

山吹


 箱根湯本に金湯山早雲寺という臨済宗大徳寺派の禅寺がある。後に北条早雲と呼ばれる伊勢早雲の菩提(ぼだい)を弔うために子の氏綱が創建した寺院で、境内には北条氏五代の墓が並び、連歌師、宗祇(そうぎ)の墓もある。

 その早雲寺から『銭泡記(ぜんぽうき)』と題された古文書が発見された。早雲の手によって、厳重に密封された桐箱の中にしまわれてあった。

 その古文書を書いた者は、粟田口善法あるいは伏見屋銭泡と呼ばれた茶人で、茶の湯の創始者といわれる村田珠光(じゅこう)の弟子だった。晩年は京都の粟田口に草庵を結び、佗び茶人として一生を過ごしたが、粟田口に落ち着くまでは各地を旅して回り、大名たちに茶の湯の指導をした。銭泡より指導を受けたと思われるのは、駿河の今川氏、江戸の太田氏、播磨の赤松氏、周防の大内氏、豊後の大友氏、美濃の土岐氏、越前の朝倉氏、越中の本願寺、越後の上杉氏、堺の商人たちがいた。

 文明十八年(一四八六年)の六月、銭泡は江戸城の太田道灌(どうかん)を十年振りに訪ね、翌月の二十六日、道灌が暗殺された現場にいた。

 太田道灌は江戸城の創始者であり、文武両道の名将として、その名は京にまで聞こえていた。数々の伝説も生まれ、特に『山吹の里』の話は有名だった。

 ある日、道灌が鷹狩りに出掛けた時、俄か雨に会い、農家に立ち寄って、蓑(みの)を貸してくれと頼んだ。若い娘が出て来て、何も言わず、ただ一輪の山吹の花を捧げた。道灌は娘の態度に腹を立て、雨に濡れながら城に帰った。和歌に詳しい家臣にその事を話すと、その娘が山吹の花を捧げたのは、『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という古歌に託して、蓑の一つもない貧しさを訴えたのだろうと言う。道灌は自分の無知を恥じて、以後、歌道に精進したと言われている。江戸時代に作られた伝説である。

 実際の道灌は子供の頃から鎌倉の建長寺や足利学校で学問を学んだ秀才だった。二十四歳で太田家の家督を継ぎ、扇谷(おおぎがやつ)上杉家の執事(しつじ)となった。二十五歳の時、江戸城を築城し、その後、上杉方の中心となって関東中を走り回り、古河公方と戦った。

 五十五歳で暗殺されたが、その生涯は戦に明け暮れていたと言ってもいい。しかし、戦の合間に、京から下向して来られた文人たちと交わり、古典に親しみ、和歌や漢詩を楽しみ、連歌会、お茶会などを催していた。道灌のいた江戸城の城下は、応仁の乱で焼け野原となる前の京の都のように栄えていた。

 『銭泡記』は、道灌暗殺の二年後、早雲の求めに応じ、現場にいた銭泡によって、当時の状況を詳しく書いたものだった。
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